
3年前の高校生いじめ事件のドキュメンタリー作品をつくるフリーの作家・由宇子(瀧内公美)のドキュメンタリーを観る。どういうこと?と思われますが、それは彼女自身に学習塾を経営する父(光石研)の過ちが降りかかるから。仕事を通した事件、プライベートの事件、2つの事件をドキュメンタリーという形でみせる。この入れ子構造が本作の肝となっています。98%ぐらいは彼女視点で綴られ、その心情の揺れ動きを天秤として表現しています。
先に見た『空白』と同様に正しさとは何かについての追求、部外者がもたらす加害性の恐ろしさを描く。メディアやマスコミの”編集した真実”によって被害者・加害者が社会的に抹殺されていく様はリアルです。「俺たちが(編集で)繋いだものが真実なんだよ」というTV局のお偉いさんの言葉は、傲慢だがそれがまかり通る世の中でもある。それでも、由宇子はいじめ事件の報道被害に遭った2つの遺族について光をあてていくのですが、次々と浮かび上がる事実にどう報道すべきか揺れに揺れる。

そして、プライべートで起こった事件。「父よ、なんてことを。わたしたち、もうお終いよ」レベルのことです。今、由宇子自身が撮っているドキュメンタリーと似たようなことが起こってしまい、これが報道されてしまえば社会的抹殺にあうのは間違いない。彼女がその遺族の立場と同じような状況に追い込まれてしまったわけです。これが”ドキュメンタリーを撮っている人のドキュメンタリーを観ている”ように映画鑑賞者からすると見えます。由宇子を追うのが手持ちカメラでの撮影が多いことも要因としてある。
98%ぐらいは主人公視点のため、わたしたちも由宇子が掴んでいく情報以外は得られない。だからこそ観る側も都合よく、”こいつが悪いのに”とか、”本当はこの人が正しいのに”というジャッジができない。だからこそフェアな見方ができるというか。音楽も全く使われていないことがまた特徴的で、派手に演出することは決してない。映画の中で起こっていることだけが情報として与えられるのみです。
真実を追う作品ではあるんですが、白か黒かの断定をしたいわけではなく、白から黒までのグラデーションの中で人は生きていることを示唆する。由宇子を通して、自分ならどうするかを幾度も幾度も考えさせられる。結局のところ思うのは、それが自身の立場に置き換わると正しさだけでは判断がつかなくなること。「正論が最善とは限らない」という由宇子のセリフが本作を代弁する。そして追い詰められていく人、極限まで追い込まれてしまった人がいる絶望が眼にも心にも焼き付いて”正しい判断を迷わせる”。春本監督の魂まるごと乗り移った重厚作であり、必見。
主演の瀧内公実さんは『彼女の人生は間違いじゃない』や『火口の二人』といった主演作、『アンダードッグ』でも観てますが本作の演技は引き込まれるのみ。そして『佐々木、イン、マイマイン』での苗村さん役を演じていた河合優実さんが、とてもあどけなく見えたことも印象的でした。岬の兄妹の二人(松浦さんと和田光沙さん)にしても、わたしが観る映画では毎回ダメ親父をやっている川瀬陽太さん、それに光石研さんも当然の存在感でしたが、いい親なのか悪い親なのかがわからなくなる梅田誠弘さんが一番気になった方です。